2008年11月29日土曜日

めぐろシティカレッジ

 都立大学附属高校にて、「大学都市としてのハイデルベルク」として2時間の話をする。目黒区主催のめぐろシティカレッジ「街並みから読み解く歴史と風土」シリーズの一講座である。学生時代に2年間、ハイデルベルクにいた。ということでお鉢が回ってきたわけだが、はて、ハイデルベルクのことは、実はよく知らなかったりする。今回、あれこれ調べてみて、幾多の発見があり、やはりこの街のことを知らなかったと実感した。例えば、以下のような事実がある。
 1950年代、学生数の増加に対応するために、大学は旧市街にあった学部すべてを新しいキャンパスIn Neuenheimer Feldに移転する計画を立てた。しかし、ハイデルベルク市当局は、旧市街に大学があり学生がいることが、街での生活や雰囲気づくりに良い影響を与えているという認識から、将来にわたっても大学が留まることを望んだという。数多くの折衝を経て、1956年、人文系学部が旧市街に留まり、残りの自然系学部のみが新キャンパスに移転することで合意した。ここで大学側が市に対して、大学に適した建物を用意すること、また、騒音対策をとることを条件としてだしている。ハイデルベルク市は、こうした大学の要求を満たしたとのことである。かくして、1960年代から1970年代にかけて、移転するなどして使われなくなった公共建築物が大学向けに改築されていった。
 ハイデルベルクの旧市街では、各学部や学科がやたらと分散し、狭い横丁に入り口があったりするが、このような経緯があってのことだと、はじめて知った次第である。ハイデルベルク市にとっても、大学にとっても、文系だけとはいえ旧市街にキャンパスを残したことは、良い選択であったのではなかろうか。今日、大学全体で約2万9千人の学生のうち、1万7千人が旧市街で学ぶ。
 帰り道、乗換の恵比寿にてModellbahnに寄る。つもりが、迷い込んで代官山。閑静な住宅街に、洒落たカフェ、レストラン、ブティック、ヘアサロン、、、おしゃれをした若い女性が多い。おじさんには場違いだが、ユニークな空間であることは確か。Modellbahnにはたどり着けたが、そのホームページの地図は何とかしてほしいと思う。

2008年11月23日日曜日

浦和レッズ

 案の定の三日坊主。早いものでエクスカーションから帰ってもう2週間が立つ。帰ってその日のうちに筑波の学会へ。その週は、種々の研究教育外の業務、卒論ゼミ、学外での会議をこなし、週末は編入学試験。その後は今日の浦和レッズ観戦者調査の準備。あっという間の2週間であった。
 レッズと大学との共同で行う埼玉スタジアムにおける観戦者調査は、これで3度目となる。同僚のK先生の誘いで、彼女とともに関わっている。レッズのサポーターとしてスタジアムに訪れる人は、年齢や性別をはじめとしてどのような人なのか、どこからどのようにしてやってくるのか、さらに彼らはレッズに何を求め、また地域にどのような影響を与えているのか、、、アンケート調査を通して明らかにしようとするものである。
 今回の調査中に、読売新聞の取材を受ける。先にさいたまサッカー100周年記念展示として、さいたま市立博物館、県立歴史と民族の博物館とともに、大学でも「サッカーdeきずな」という展示を行った。その後、コムナーレでサッカーカンファレンスが開催された折に、同展示を出張して行ったのだが、記者はそれをみて興味をもち、話を聞きに来たという。取材中にも、16人のバイト調査員による調査(アンケートの配布)は行われていた。今回は、アンケートを帰宅後に記入し郵送してもらうかたちをとるため、スムーズに事が進んだ。レッズのサポーターの方々が非常に協力的なこともある。チームへの熱い思いが感じられる次第である。
 試合開始前に無事、調査終了。対エスパルス戦をバイトの学生らと弁当を食べながら観戦する。前半は0対1。ボールをもつ選手の周りの動きがない。そして苦し紛れのパスは相手にわたる。後半は、敵の運動量が落ちる中で、選手個々の力で局面を打開し、チャンスが生まれるようになる。左からのクロスを闘利王が決めて同点。しかし、前がかりになったところをカウンターで失点してしまい、ジ・エンド。サポーターもフラストがたまっていることであろう。アンケートの回収がどの程度になるか不安である。


 今回のアンケートでは、試合前後に浦和駅周辺に立ち寄った方に、行き帰りの経路を地図に書き込んでもらうことをした。実際にどうなのか、観察すべく帰宅後、自転車にて浦和駅前に向かう。スタジアムからのバスで、また、電車にて、続々とサポーターがやってきては散ってゆく。伊勢丹やコルソ、イトーヨーカドーに入っていく家族連れ、そして袋を抱えて出てくる夫婦、、、サッカー観戦が日常生活に組み込まれている姿をそこに見る。一方で、裏門通り、サポーターが集まることで著名な酒蔵力とその周辺に向かう数人からなる集団もいる。力や周辺の飲み屋、カフェで試合後の時間を仲間と過ごすことになるのであろう。
 GPSロガーによる行動の把握はすでにあちこちで試みられているが、同様に、GPSロガーにて、サポーターの行動を把握できないものかと思案。試しに、今日一日、ガーミンのGPSmap 60CSxを携帯する。帰宅後に軌跡を確認すると、車での移動中は正確に補足されていたが、埼玉スタジアム内、および浦和駅前周辺では、誤差が大きかった。後者におけるズレは痛い。建物への出入りが多かったからか、あるいは建築物が電波を遮蔽するからか。



 以下、菊地俊夫編著(2008)『観光を学ぶ―楽しむことからはじまる観光学 (めぐろシティカレッジ叢書 9) 』二宮書店. の「地域の祭りと観光」の中で、サッカー観戦を一種の祭りとして書いた駄文の一部。

祭りとしてのスポーツ:浦和レッズ
 1993年に発足した日本のプロサッカーリーグであるJリーグは、地域社会と一体となることを目指し、ホームタウン制を採っている。特定の市区町村をホームタウンとし、そこで全主催ゲームの8割を行わなければならない。繰り返し行われるホームゲームの開催日には、スタジアムのゴール裏ではサポーターが揃って応援し、試合後には街に繰り出していく風景がみられる。現在、Jリーグにおいて最も観客を集め、熱狂的な応援で知られる浦和レッズの場合はどうであろうか。
 現在、さいたま市に属する旧浦和市は、市内の高校が幾度となく全国優勝を重ねてきたことから、「サッカーのまち」として知られてきた。Jリーグ発足時、ホームチームを求めていた旧浦和市とホームタウンを探していた三菱重工サッカー部が出会い、浦和レッズが誕生することになる。三菱重工サッカー部には旧浦和市をはじめとした埼玉県出身の選手は多くいたが、特に旧浦和市と関係はなかった。それが、今では、地域に密着したチームの典型として語られるようになっている。
2006年12月、埼玉スタジアムで行われた対ガンバ大阪戦において、レッズファン・サポーターに対して浦和レッズと埼玉大学によって共同のアンケート調査が行われた。これによると、観戦者の3割をさいたま市が占め、さらに4分の3を埼玉県が占めており、ホームタウンにおいて浦和レッズが定着しているだけではなく、埼玉県全体からも支持されていることがわかる。加えて、東京都からが1割を超えるのをはじめとして、埼玉県外の関東からが2割近くに達しており、浦和レッズのファン層は埼玉県を超えて広がりをみせている。スタジアムを訪れる彼らが浦和レッズを好きな理由として、「スタジアムの雰囲気が良い」、「ゴール裏のサポーターが魅力」が上位に挙げられており、単にサッカーを観戦するだけではなく、ともに応援し、その独特の雰囲気に浸ることが魅力となっていることがわかる。赤いユニフォームを着た多くが一体となって、手を振りかざし、応援歌を歌う、それはまさに祭りの風景であり、祭りで得られる同じ興奮をスタジアムで味わっているのである。そして、集まってくるサポーターが、さいたま市に限らず広範囲にわたっていることは、YOSAKOIソーラン祭の場合と同様であり、祭りへの参加と観光とが重なり合う現代の祭りともいえる。
 スタジアムで観戦を終えたサポーターの一部は街へと繰り出していく。とりわけ浦和駅西口周辺には、普段よりレッズのフラッグがここそこに掲げられているが、そこに赤いユニフォームを着たサポーターらが行き来し、にぎわいをみせる。祭りは、スタジアムの中にとどまらず浦和の街にまで広がり、それは繰り返し訪れる。

2008年11月5日水曜日

エクスカーション

 今日からエクスカーションが始まる。地理学や地質学で一般に「巡検」と称され、それはまた、フィールドワークと同義ともされる場合がある。小生の理解では、日本における「巡検」は二重の意味をもつ。すなわち、ある特定の地域を、特定のテーマにとらわれず多様な観点から地域自体の理解を目的としてみてまわること、そして、テーマをあらかじめ設定した上で、現地において資料を収集したり、現地観察、インタビューなどによってデータを収集することである。前者をエクスカーションとして、後者を現地調査あるいはフィールドワークとして明確に区別する方がよい、と常々思っている。実習教育においても、両者を区別して行い、それぞれカリキュラムの中で位置づけるべきである。スタッフが限られている中で困難なことではあるが。
 今日からの日程と見学ポイントは以下の通り。基本的に徒歩と公共交通機関を用いる。肌で土地を感じ、交通事情を知るにはそれがよい。ただし、どうしても公共交通ではアクセスの困難なところがある。今回は3日目、レンタカーを用いることにしている。


11月5日(水)

静岡駅------<静岡市中心商業地・業務地区>------<駿府城趾>------<静岡市街>------静岡駅前停留所 (4番のりば) 16:50======17:07登呂遺跡------宿

(泊)〒422-8033静岡市駿河区登呂4丁目17-23 旅館登呂

11月6日(木)

宿9:00-------<登呂遺跡>----登呂遺跡入口10:04======10:24久能局前----<久能山の石垣イチゴ>-----<東照宮>---久能山下11:40 =====11:59梅蔭寺----<次郎長通り>---<エスパルス通り>---<清水港(日の出ドリームパーク)>---<エスパルスドリームプラザ>-----エスパルスドリームプラザ14:30=====14:35JR清水駅--<清水市街>-----静鉄新清水駅15:24======15:32草薙--<谷田地区(静清土地区画整理事業)>---県立美術館前16:21====16:32新静岡17:12=====17:29登呂遺跡-----宿

(泊)〒422-8033静岡市駿河区登呂4丁目17-23 旅館登呂

117日(金) *レンタカーにて移動*

宿- -<STEP IN たまるや(わさび漬け工場)>--<大崩海岸>---<焼津漁港>-------<焼津市街>---<静岡うなぎ漁業協同組合(大井川流域の養鰻業)>-----<相良油田>--<グリンピア牧ノ原(牧ノ原台地の茶業)>---<富士山静岡空港ビジターセンター>---<大井川蓬莱橋>-----宿

(泊)〒427-0022 島田市本通1丁目4628-2 ホテル1--3島田

118日(土)

宿---島田駅前9:34====9:41大井川公園前---<島田市街(大井川川越遺跡)>--大井川公園前10:51===10:53新金谷入口---<大井川鐵道新金谷駅>11:15===11:19 金谷====<金谷市街(東海道石畳)>----金谷駅にて解散12時30分頃

見学(下調べ分担)テーマ:
・東海道メガロポリスにおける静岡の位置(人口と都市、産業)
・駿府城下町の都市形態とその変遷
・現在における静岡市の中心市街地の構造
・石垣イチゴ生産の変遷と観光化
・清水港の貿易の変化と東海道における位置
・清水エスパルスの設立と清水における意義
・静岡市と清水市の合併の経緯と合併市における両市の位置
・焼津漁港における遠洋漁業の変化
・大井川流域における養鰻業の展開
・牧之原台地の開発と茶業
・東海道53次の交通体系と大井川川越
・産業観光としての大井川鐵道

2008年11月3日月曜日

鉄道博物館

 次男と鉄道博物館を訪れる。10時開場の10分前に到着するがすでに200人ほどが列をなしている。10時には、さらに後ろに同じくらいの人が並ぶ。連休中とはいえ、相変わらずの集客力を誇っている。むろん、子供連れの家族が多いが、子供を同伴しない多様な年代のグループも散見される。
 夏に次男とともにこの博物館の会員組織Teppa倶楽部の会員となった。年会費大人3,000円で入館が無料となる。そのうちに、いずれ、と思っているうちに今日になってしまった。次男はすでに3度目、彼について館内を回る。大宮駅の北、新幹線と在来線に挟まれた細長い敷地に同館はあり、その立地を生かし、館内から実際に走る列車を眺めることができるよう意識して設計されている。これは他にない魅力であろう。また、単に機関車や客車を並べるて展示するだけではなく、鉄道のシステムを学ぶ場や、実際に運転を体験する場も設けられている(次男がやりたいと勇んでいた「ミニ列車運転」は、開館とともに午前の予約が満杯となっていたが)。ただ、メインである機関車展示ホールは、詰め込みすぎでやや窮屈な印象を受けた。敷地が限られていることからしょうがないのかもしれない。また、ちょこまかと動き回る次男に引きずり回されて、ゆっくりと掲示をみることもできなかったのだが、鉄道とその技術的変遷そのものの説明が主となっており、それがどのような時代背景でもたらされたのか、そして、我々の生活にどのような変化をもたらしたのか、という点に関しての説明が希薄のように思えた。


 その後訪れた企画展「電車特急50年」は狭いスペースながらもおもしろかったし(子供連れは少なく、小生と同様のオヤジが目立ったが)、ライブラリーを設けているところも評価できる(目録をみると、鉄道をはじめとして交通関係の蔵書が豊富である)。また、列車を解放して、駅弁を食べさせる場としているところもユニークな試みであろう(次男は、漫画「鉄子の旅」の作者菊池直子プロデュースという「日本縦断弁当~こだわり西日本編~」を、小生は大船駅の鰺の押し寿司を食べる)。

 かつてイギリスのヨークにある国立鉄道博物館を訪れたことがある。大宮の鉄道博物館も明らかにここを参考にしているようであるが、規模はずっと大きい。同じように列車が展示されているが、長いホームに実際に停車するように配置され、ホームには、カフェテリアがあってコーヒーが飲めて軽食も食べられる。日本の新幹線0系も展示されている。オーストラリアのアデレードにある国立鉄道博物館にもいったことがある。そこでは、鉄道と広大なオーストラリアの開発、そしてそこでの生活との関わりを示していた。スイスのルツェルン近くの交通博物館、、、ドイツはミュンヘンのドイツ博物館交通部門、、、ウランバートルの、、、テツはとっくに卒業(落第?)していたはずなのだが、、、、、、

2008年11月1日土曜日

静岡

 この週末、静岡中部を訪れている。来週のエクスカーションの下見である。10月はじめまで、オーストリア、モンゴルと外に出ていたので、まさに直前となってしまった。
 連休初日ということもあってか、東京駅9時3分発岡山行きひかりの自由席は、東京駅ですでに満員。品川、新横浜と通路に立つ人は増えてくる。名古屋や大阪には便数も多く、スピードも速くなったが、こうした短距離の移動は、その影でないがしろにされているかのようだ。そもそも東海道新幹線のキャパシティが限界。JR東海が中央リニアを急ぐのももっともである。三島での乗り降りも多く、静岡でも同様であり、こうした沿線の都市間の流動もそれなりにあるとわかる。
 静岡の街を歩くのは何年ぶりだろうか。全国の都市で中心市街地の衰退が問題になっている中で、静岡市の中心商業地は、それなりに維持されていることで知られる。今日は大道芸ワールドカップなる催しをやっていることもあり、街は人で溢れていた。呉服町を中心とする商店街は、駿府城下の商人町であったところ、そして今は、静岡駅前に位置している。多くの城下町では、商人町起源の商店街と駅前商店街が離れており、前者から後者への重心の移動がみられたが、ここでは両者が重なり合っているといえる。また、商店街に隣接して、市役所や県庁といった行政機能や、市立病院などの医療施設も立地する。こうした機能を郊外に移転させず残してきたことも人を街に吸引する要因となっていよう。
 大道芸のパフォーマンスを見に来ている人で一杯の駿府公園から鷹匠町を経て、静岡駅へ戻る。鷹匠町は静岡の代官山といわれているらしい。密度は高くはないが、こじゃれたレストランや喫茶店がここそこに。ブティックやギャラリーもある。静岡だけではなく、岐阜でもそうだったが、地方の中心都市にこうしたおもしろい空間が生み出されていることは興味深い。
 駅前でレンタカーを借りる。登呂遺跡から海岸線にでて久能山麓の石垣いちご栽培地域へ。そして、清水へ。周辺は、工場、倉庫が軒を並べるようになる。次郎長通り、エスパルス通りを通り、清水港へ。フェリーの発着するターミナルから、清水マリンビルの展望台。そして複合商業施設エスパルスドリームプラザへ。ちびまる子ちゃんランドなるものもある。いくつかの鮨屋が入ったすしや横丁があって、手頃な店の一番手頃なメニュー、海鮮丼で昼食とする。ユズをきかせた酢飯に新鮮なネタで満足。2時近くで店も暇そう。店主は、携帯ワンセグで、ナビスコ決勝、清水対大分をみている。勝てば、選手がこのプラザ前のイベント広場にやってくるとか(大分の勝ち、残念でした!)。
 草薙周辺の住宅地、わさび漬け工場たまるやをみて後、大崩海岸を経由して焼津に入る。こうした都市、都市域が連担する様は、まさに東海道メガロポリス。世界でもまれな帯状の高密度ゾーンといえよう。港では、むろん市場は休み、何艘かの遠洋漁業船が係留されている。西焼津駅近くのビジネスホテルに泊。ストレスないスピードでしかも無料でインターネットが可能。これは日本では既に当たり前になっているが、今夏のヨーロッパでは全然当たり前ではなかった。有料で遅い、それがデフォである。ホテルは7階、窓の外では、新幹線が右に左にあっという間に走りすぎていく。