今日はS大学。銀座の天賞堂でやっている「zゲージまつり」をのぞいて、千代田線日比谷駅へ、駅手前の鹿児島県アンテナショップに立ち寄る。1階は薩摩揚げ、焼酎などの食品、2階はレストラン、3階は、工芸品などを売る。薩摩切り子に見入る。我が家に数点あるはずだが、何処か戸棚の奥深く、、、ながらくお目にかかってもいない。薩摩切り子といえば、尚古集成館であるが、別途ガラス工房ができていて、黒い薩摩切り子を造っている。その作品群も飾られていた。黒も良い。1階の食料品売り場にて、かるかんと知覧茶、ボンタンアメを求めて、地下鉄に乗る。
小田急線地下化工事中の下北沢で途中下車、駅周辺を歩く。小洒落た雑貨屋や古着屋、喫茶店、レストランが点在し、住宅地の中まで入り込んでいる。おじさんでも歩くのが楽しくなる空間である。駅前の近隣商業地が、商圏を広げる中で、面的に拡大、そして質的に変化したか。歩いた範囲内で、有機食材を使うレストランが2軒、自然食品スーパーが1軒あった。商売として成り立っているということ、有機を指向する人々らがいるということでもある。昼食としてラーメンを食す。
帰りの新宿、タワーレコードに立ち寄る。Marcin Wasilewski "faithful"とJean-Pierre Fouquey " Railroad"。前者は"TRIO"に次ぐ2枚目、いかにもECM(最近はキース・ジャレットのケルン・コンサートをよく聴く)、後者は"鉄"ジャケ買い、、、思いのほかメロディアスで聞きやすい。
2011年7月25日月曜日
暑気払い
大宮アルディージャの観戦者調査でお世話になったO氏が親会社Nへ移動になったとのことで、同僚K氏と共に、武蔵浦和ビストロアンにて慰労(祝賀?)会。今シーズンのアルディージャの調子、なでしこJAPANの活躍、、、そしてまた、O氏は、昨年12月のトリノでも一緒で、その時のことに話を咲かせる。食事、そしてワインがおいしかったことに、皆異論はない。今晩のお店の食事も(食にはうるさいK氏からも)好評であった。ここは、妻が、子供の同級生の母親らに誘われてランチに来たところ、その後、家族でも一度訪れている。「どこに行けばおいしく食べられるか?」母親の情報ネットワークはあなどりがたし。
2011年7月17日日曜日
秩父から「力」
昨日は、「ふるさと支援隊」活動として、学生らと秩父市吉田阿熊の集落センターにて、インタビュー調査、そして、震災で中止となった昨年度の報告会。報告会には大勢の方々に来てもらえて、加えて、活発な質疑応答、さらには学生らとの車座の議論も予定の時刻を過ぎても続き、よかったかな、と。宿とするかおる鉱泉には、9時過ぎに到着し、夕食とする。学生らが地元の人のガイドで採った沢ガニを揚げてもらう。風呂の後に、学生の部屋でビール、気づくと2時を回っており、おじさんは退散。
本日は、小鹿野の街、秩父ワイン(学生らは試飲、運転手の私は指を加えてみているだけ)、小豆沢の日窒鉱山集落跡(ずいぶんと朽ち果ててきた)、栃本関所跡、そして、三峯神社を経て、渋滞の関越を大学へと戻る。くねる山道(林道)、運転の仕方が悪いのか(家族に言われいることであるが)、途中で酔って気分が悪くなる学生。すいません!
19時半に浦和駅西口にて、K大学N氏と待ち合わせ。裏門通りに向かって歩く。力の前には人だかり、と、「ウォー、、、」と歓声があがる。アウェーの浦和対磐田戦、レッズが点を入れたようであり、N氏もその場の雰囲気に圧倒された様子。行くつもりであった居酒屋ではなく、力の支店(?)に入る。入って案内された場所がスクリーンの真下で、相席のテーブルの対面はアベック。お店の中のレッズ・サポは皆スクリーン、すなわち我々の方を見ている。したがって、スクリーンを無視して二人で話すのもバツが悪く、スクリーンを時折見るふりをしつつ話す。試合は、後半ロスタイムでPKをとられたレッズが引き分けに持ち込まれて終了、力の店の中も気まずい雰囲気となる。K市にもJリーグのチームがあるが、このような場所はないとのこと、浦和らしい光景といえよう。
本日は、小鹿野の街、秩父ワイン(学生らは試飲、運転手の私は指を加えてみているだけ)、小豆沢の日窒鉱山集落跡(ずいぶんと朽ち果ててきた)、栃本関所跡、そして、三峯神社を経て、渋滞の関越を大学へと戻る。くねる山道(林道)、運転の仕方が悪いのか(家族に言われいることであるが)、途中で酔って気分が悪くなる学生。すいません!
19時半に浦和駅西口にて、K大学N氏と待ち合わせ。裏門通りに向かって歩く。力の前には人だかり、と、「ウォー、、、」と歓声があがる。アウェーの浦和対磐田戦、レッズが点を入れたようであり、N氏もその場の雰囲気に圧倒された様子。行くつもりであった居酒屋ではなく、力の支店(?)に入る。入って案内された場所がスクリーンの真下で、相席のテーブルの対面はアベック。お店の中のレッズ・サポは皆スクリーン、すなわち我々の方を見ている。したがって、スクリーンを無視して二人で話すのもバツが悪く、スクリーンを時折見るふりをしつつ話す。試合は、後半ロスタイムでPKをとられたレッズが引き分けに持ち込まれて終了、力の店の中も気まずい雰囲気となる。K市にもJリーグのチームがあるが、このような場所はないとのこと、浦和らしい光景といえよう。
2011年7月12日火曜日
クレー
竹橋、近代美術館のクレー展に寄る。久しぶりの展覧会。先般、渋谷東急で展示していたフェルメールの「地理学者」も見に行きたいと思っていたが結局叶わなかった(この「地理学者」はフランクフルトのシュテーデル美術館の中でも好きな作品の一つだった)。
本務校の身分証明証はもたないが、J大学の教職員証にて割引、ありがたや。割引分+100円にて音声ガイドを借りる。クレーは好きで、ドイツにいたときには、コレクションがあると聞いていたベルンやデュッセルドルフの美術館へ何度かでかけていた。1987年には、ベルンで、ニューヨーク近代美術館とともに、けっこうな規模で回顧展をやり、2度見に行った記憶がある。その後、ベルン郊外にできたクレー・センターには残念ながらまだ行ってはいない。
今回の展覧会にもクレー・センターのコレクションから多くがきていた。また、日本各地の美術館からも作品が集められていた。クレーの技法についてうまくまとめられていたと思うが、インパクトのある作品の数が少ないかな、という印象である。ますますクレー・センターに行きたくなってきた。
平日の午前というのに、すごい人の数(9割方はおばさん、私のようなおじさんはわずか)。日本でもクレーはそれなりに人気があるのですね。
本務校の身分証明証はもたないが、J大学の教職員証にて割引、ありがたや。割引分+100円にて音声ガイドを借りる。クレーは好きで、ドイツにいたときには、コレクションがあると聞いていたベルンやデュッセルドルフの美術館へ何度かでかけていた。1987年には、ベルンで、ニューヨーク近代美術館とともに、けっこうな規模で回顧展をやり、2度見に行った記憶がある。その後、ベルン郊外にできたクレー・センターには残念ながらまだ行ってはいない。
今回の展覧会にもクレー・センターのコレクションから多くがきていた。また、日本各地の美術館からも作品が集められていた。クレーの技法についてうまくまとめられていたと思うが、インパクトのある作品の数が少ないかな、という印象である。ますますクレー・センターに行きたくなってきた。
平日の午前というのに、すごい人の数(9割方はおばさん、私のようなおじさんはわずか)。日本でもクレーはそれなりに人気があるのですね。
2011年7月4日月曜日
2011年6月29日水曜日
チェルノブイリ、そして福島
昨日、J大学にて借りたマリーナ・ガムバロフ他『チェルノブイリは女たちを変えた』社会思想社をパラパラとめくる。
チェルノブイリの事故によって、ドイツも南部を中心に放射能に汚染され、土壌や食品の汚染が問題となっていた。その時の母親ら女性の思いや行動を綴った書である。政治家は、野菜を頬張り安全を訴える一方で、子を持つ母らは、子供を外で遊ばせるのを止めて冷凍食品や缶詰に走る、、、どこかでみた光景、そう現在の日本の光景である。
チェルノブイリの事故は1986年の4月、私は、その6月から2年と4ヶ月、ドイツ、ハイデルベルクに滞在していた。その間、放射能に汚染された食材を口にしていたことになる。私の指導教員も周りの学生もあまり気にせず、すなわち、多くの人々は、通常の生活をしていたようだが、一方で、リベラル系の新聞が、「今週の放射能」という記事で、何に何ベクレルの放射能が検出されたと記事にしていたし、市民団体が、「食品に含まれる放射能」といった冊子を作って、牛乳やお菓子など、どの銘柄にどれくらいの放射能が検出されたか、どう対処すべきか、伝えていた。多くの「気にしない、気にしてもしょうがない」層と、一部の「危ない、何とかしなくてはいけない」層とに二分されていたといえ、これもやはり、今日の日本、関東における社会の対応と重なる部分があるといえる。
これまでネットにおける放射能を巡る言説に触れてきた。それを踏まえた上で、当時のドイツにおける汚染の実態と社会の反応を振り返ってみたいと思っている。某所で話さなければならないことになって、その素材集めでもある、、、
チェルノブイリの事故によって、ドイツも南部を中心に放射能に汚染され、土壌や食品の汚染が問題となっていた。その時の母親ら女性の思いや行動を綴った書である。政治家は、野菜を頬張り安全を訴える一方で、子を持つ母らは、子供を外で遊ばせるのを止めて冷凍食品や缶詰に走る、、、どこかでみた光景、そう現在の日本の光景である。
チェルノブイリの事故は1986年の4月、私は、その6月から2年と4ヶ月、ドイツ、ハイデルベルクに滞在していた。その間、放射能に汚染された食材を口にしていたことになる。私の指導教員も周りの学生もあまり気にせず、すなわち、多くの人々は、通常の生活をしていたようだが、一方で、リベラル系の新聞が、「今週の放射能」という記事で、何に何ベクレルの放射能が検出されたと記事にしていたし、市民団体が、「食品に含まれる放射能」といった冊子を作って、牛乳やお菓子など、どの銘柄にどれくらいの放射能が検出されたか、どう対処すべきか、伝えていた。多くの「気にしない、気にしてもしょうがない」層と、一部の「危ない、何とかしなくてはいけない」層とに二分されていたといえ、これもやはり、今日の日本、関東における社会の対応と重なる部分があるといえる。
これまでネットにおける放射能を巡る言説に触れてきた。それを踏まえた上で、当時のドイツにおける汚染の実態と社会の反応を振り返ってみたいと思っている。某所で話さなければならないことになって、その素材集めでもある、、、
2011年6月28日火曜日
CD
J大学での非常勤の日、新宿タワーレコードに立ち寄る。先日、秋葉原で買おうと思っていたBerndt Egerbladh"A BOY FULL OF THOUGHTS"を見つける。これで止めておけば良いのだが、ずっとアルバムを入手しているfourplayの新作LET'S TOUCH THE SKYに手をだす。学生時代にCDプレーヤーもないのにはじめて買ったCD、Bill EvansのWalz for DebbyのSACDを前にしばし迷う。既に、HDtracksにて24bit192kHz板をダウンロード購入しているからである。聞き比べをしてみたいと思ったが、4500円は高い。SACDは止めたが、隣のWalz for Debby完全板なるものを手にとってしまう。さらに、Guido Trio ManusardiのBLUE TRAIN。これはジャケ買い。イタリアンなのに、どうしてジャケの列車はDBドイツ国鉄?
結局4枚ご購入。
結局4枚ご購入。
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