2010年1月5日火曜日
ブログ
正月は久しぶりに浦和にて過ごす。2日より一番下の子を連れて2人で富山の実家へと2泊3日の帰省。お年玉にトイザらスと、祖父母に甘やかされる孫となる。トイザらスのあるイオンは、正月休みの客で賑わう。どこも似たような店舗構成のショッピング・モールは、面白味に欠けはするが、中央と地方における消費財提供の格差を確実に縮めてはいるだろう。トイザらス脇のスポーツ用品店に入り、その品揃えの多さ、選択の幅の広さに驚く。昔はこんなにモノはなかったなー。この金太郎飴的モールと言えば、昨夏訪れたドイツの街を思い浮かべる。日本と異なり、比較的、中心商業地が維持されているドイツの街ではあるが、長く続く地場の老舗が全国的あるいは国際的なチェーン店に取って代わられる傾向が顕著であった。ベネトンやら何やらの衣料品店、スターバックス、ハードロックカフェといった飲食店が、どの街でも軒を連ねることとなる。伝統的街並みと賑わいは維持されているが、「日本のイオンが外にでただけでは?」と思った次第である。
4日に富山より戻る。帰省を決めたのが遅く、ほくほく線経由の特急はくたかと上越新幹線の乗り継ぎはむろん満席。テツの道を歩みつつある息子と大糸線、中央線経由で帰ることにする。糸魚川まで北陸線を特急北越で。糸魚川駅前の蕎麦屋で昼を取って駅に戻ると、大糸線を走る車両キハ52には、カメラを持ったテツの人たちが群がっていた。息子も彼らに混じってカメラを向ける。ホームで列車の入線を待っていると、隣のおばさんが、「なにが珍しいんかねー?」と彼らの姿をみてぼそりと言う。
一般のおばさん、おじさん、そして駅で撮影していたテツの人たちと2両編成の列車に乗り込む。大糸線沿線のここそこでも雪の中でカメラを構えた強者たちをみる。現在、大糸線を走るキハ52には配色が異なる3両があるが、老朽化によりこの三月でキハ120に置き換えられるとのこと、雪景色を走る最後のキハ52を納めておこうと言うことだろう。
南小谷にて特急あずさに乗り換える。ここからは新宿まで4時間の旅。安曇野から松本、諏訪、そして夜景のきれいな甲府盆地を経て関東平野へ。終着の新宿駅前は夜空に聳える摩天楼、、、これほど始発駅と到着駅の落差の大きい特急区間もないのではないだろうか。息子も興奮していた様子。埼京線にて帰着。
2008年12月22日月曜日
パソコン
早速、届いた上蓋から液晶を取りだして、付け替える。何の問題もなく起動し、タブレットも作動する。送料を入れて300USドル。HPさん、10万円は高すぎです!
続いて、トランセンドのSSD 32Gが到着。SSDもずいぶんと価格が低下し、8GのCFに変換アダプターをつけて入れているs30に載せかえることにした。CFでは、動きはもっさりとしていたが、SSDにかえると、爆速とまではいかないが、軽快に動くようになった。ThinkPadはとにもかくにもキーボードが秀逸で、打つことが快感になるほど。これでまだしばらくは現役でいけそうである。
2008年12月19日金曜日
2008年12月18日木曜日
忘年会
夕刻、慌ただしく丸の内東京ビルに移動する。東京駅界隈は、ここそこのビルでクリスマス模様の電飾、華やいだ雰囲気。有機の食材を中心としたビュッフェ形式のレストラン「野の葡萄」にてJONAの忘年会。故郷富山に繋がる人らと同席、ブリやらタイの蒲鉾やら、地元ネタに話をさかせた。
2008年11月29日土曜日
めぐろシティカレッジ
1950年代、学生数の増加に対応するために、大学は旧市街にあった学部すべてを新しいキャンパスIn Neuenheimer Feldに移転する計画を立てた。しかし、ハイデルベルク市当局は、旧市街に大学があり学生がいることが、街での生活や雰囲気づくりに良い影響を与えているという認識から、将来にわたっても大学が留まることを望んだという。数多くの折衝を経て、1956年、人文系学部が旧市街に留まり、残りの自然系学部のみが新キャンパスに移転することで合意した。ここで大学側が市に対して、大学に適した建物を用意すること、また、騒音対策をとることを条件としてだしている。ハイデルベルク市は、こうした大学の要求を満たしたとのことである。かくして、1960年代から1970年代にかけて、移転するなどして使われなくなった公共建築物が大学向けに改築されていった。
ハイデルベルクの旧市街では、各学部や学科がやたらと分散し、狭い横丁に入り口があったりするが、このような経緯があってのことだと、はじめて知った次第である。ハイデルベルク市にとっても、大学にとっても、文系だけとはいえ旧市街にキャンパスを残したことは、良い選択であったのではなかろうか。今日、大学全体で約2万9千人の学生のうち、1万7千人が旧市街で学ぶ。
帰り道、乗換の恵比寿にてModellbahnに寄る。つもりが、迷い込んで代官山。閑静な住宅街に、洒落たカフェ、レストラン、ブティック、ヘアサロン、、、おしゃれをした若い女性が多い。おじさんには場違いだが、ユニークな空間であることは確か。Modellbahnにはたどり着けたが、そのホームページの地図は何とかしてほしいと思う。
2008年11月23日日曜日
浦和レッズ
レッズと大学との共同で行う埼玉スタジアムにおける観戦者調査は、これで3度目となる。同僚のK先生の誘いで、彼女とともに関わっている。レッズのサポーターとしてスタジアムに訪れる人は、年齢や性別をはじめとしてどのような人なのか、どこからどのようにしてやってくるのか、さらに彼らはレッズに何を求め、また地域にどのような影響を与えているのか、、、アンケート調査を通して明らかにしようとするものである。
今回の調査中に、読売新聞の取材を受ける。先にさいたまサッカー100周年記念展示として、さいたま市立博物館、県立歴史と民族の博物館とともに、大学でも「サッカーdeきずな」という展示を行った。その後、コムナーレでサッカーカンファレンスが開催された折に、同展示を出張して行ったのだが、記者はそれをみて興味をもち、話を聞きに来たという。取材中にも、16人のバイト調査員による調査(アンケートの配布)は行われていた。今回は、アンケートを帰宅後に記入し郵送してもらうかたちをとるため、スムーズに事が進んだ。レッズのサポーターの方々が非常に協力的なこともある。チームへの熱い思いが感じられる次第である。
試合開始前に無事、調査終了。対エスパルス戦をバイトの学生らと弁当を食べながら観戦する。前半は0対1。ボールをもつ選手の周りの動きがない。そして苦し紛れのパスは相手にわたる。後半は、敵の運動量が落ちる中で、選手個々の力で局面を打開し、チャンスが生まれるようになる。左からのクロスを闘利王が決めて同点。しかし、前がかりになったところをカウンターで失点してしまい、ジ・エンド。サポーターもフラストがたまっていることであろう。アンケートの回収がどの程度になるか不安である。

今回のアンケートでは、試合前後に浦和駅周辺に立ち寄った方に、行き帰りの経路を地図に書き込んでもらうことをした。実際にどうなのか、観察すべく帰宅後、自転車にて浦和駅前に向かう。スタジアムからのバスで、また、電車にて、続々とサポーターがやってきては散ってゆく。伊勢丹やコルソ、イトーヨーカドーに入っていく家族連れ、そして袋を抱えて出てくる夫婦、、、サッカー観戦が日常生活に組み込まれている姿をそこに見る。一方で、裏門通り、サポーターが集まることで著名な酒蔵力とその周辺に向かう数人からなる集団もいる。力や周辺の飲み屋、カフェで試合後の時間を仲間と過ごすことになるのであろう。
GPSロガーによる行動の把握はすでにあちこちで試みられているが、同様に、GPSロガーにて、サポーターの行動を把握できないものかと思案。試しに、今日一日、ガーミンのGPSmap 60CSxを携帯する。帰宅後に軌跡を確認すると、車での移動中は正確に補足されていたが、埼玉スタジアム内、および浦和駅前周辺では、誤差が大きかった。後者におけるズレは痛い。建物への出入りが多かったからか、あるいは建築物が電波を遮蔽するからか。

以下、菊地俊夫編著(2008)『観光を学ぶ―楽しむことからはじまる観光学 (めぐろシティカレッジ叢書 9) 』二宮書店. の「地域の祭りと観光」の中で、サッカー観戦を一種の祭りとして書いた駄文の一部。
祭りとしてのスポーツ:浦和レッズ
1993年に発足した日本のプロサッカーリーグであるJリーグは、地域社会と一体となることを目指し、ホームタウン制を採っている。特定の市区町村をホームタウンとし、そこで全主催ゲームの8割を行わなければならない。繰り返し行われるホームゲームの開催日には、スタジアムのゴール裏ではサポーターが揃って応援し、試合後には街に繰り出していく風景がみられる。現在、Jリーグにおいて最も観客を集め、熱狂的な応援で知られる浦和レッズの場合はどうであろうか。
現在、さいたま市に属する旧浦和市は、市内の高校が幾度となく全国優勝を重ねてきたことから、「サッカーのまち」として知られてきた。Jリーグ発足時、ホームチームを求めていた旧浦和市とホームタウンを探していた三菱重工サッカー部が出会い、浦和レッズが誕生することになる。三菱重工サッカー部には旧浦和市をはじめとした埼玉県出身の選手は多くいたが、特に旧浦和市と関係はなかった。それが、今では、地域に密着したチームの典型として語られるようになっている。
2006年12月、埼玉スタジアムで行われた対ガンバ大阪戦において、レッズファン・サポーターに対して浦和レッズと埼玉大学によって共同のアンケート調査が行われた。これによると、観戦者の3割をさいたま市が占め、さらに4分の3を埼玉県が占めており、ホームタウンにおいて浦和レッズが定着しているだけではなく、埼玉県全体からも支持されていることがわかる。加えて、東京都からが1割を超えるのをはじめとして、埼玉県外の関東からが2割近くに達しており、浦和レッズのファン層は埼玉県を超えて広がりをみせている。スタジアムを訪れる彼らが浦和レッズを好きな理由として、「スタジアムの雰囲気が良い」、「ゴール裏のサポーターが魅力」が上位に挙げられており、単にサッカーを観戦するだけではなく、ともに応援し、その独特の雰囲気に浸ることが魅力となっていることがわかる。赤いユニフォームを着た多くが一体となって、手を振りかざし、応援歌を歌う、それはまさに祭りの風景であり、祭りで得られる同じ興奮をスタジアムで味わっているのである。そして、集まってくるサポーターが、さいたま市に限らず広範囲にわたっていることは、YOSAKOIソーラン祭の場合と同様であり、祭りへの参加と観光とが重なり合う現代の祭りともいえる。
スタジアムで観戦を終えたサポーターの一部は街へと繰り出していく。とりわけ浦和駅西口周辺には、普段よりレッズのフラッグがここそこに掲げられているが、そこに赤いユニフォームを着たサポーターらが行き来し、にぎわいをみせる。祭りは、スタジアムの中にとどまらず浦和の街にまで広がり、それは繰り返し訪れる。
2008年11月5日水曜日
エクスカーション
今日からの日程と見学ポイントは以下の通り。基本的に徒歩と公共交通機関を用いる。肌で土地を感じ、交通事情を知るにはそれがよい。ただし、どうしても公共交通ではアクセスの困難なところがある。今回は3日目、レンタカーを用いることにしている。
11月5日(水)
静岡駅------<静岡市中心商業地・業務地区>------<駿府城趾>------<静岡市街>------静岡駅前停留所 (4番のりば) 16:50======17:07登呂遺跡------宿
(泊)〒422-8033静岡市駿河区登呂4丁目17-23 旅館登呂
11月6日(木)
宿9:00-------<登呂遺跡>----登呂遺跡入口10:04======10:24久能局前----<久能山の石垣イチゴ>-----<東照宮>---久能山下11:40 =====11:59梅蔭寺----<次郎長通り>---<エスパルス通り>---<清水港(日の出ドリームパーク)>---<エスパルスドリームプラザ>-----エスパルスドリームプラザ14:30=====14:35JR清水駅--<清水市街>-----静鉄新清水駅15:24======15:32草薙--<谷田地区(静清土地区画整理事業)>---県立美術館前16:21====16:32新静岡17:12=====17:29登呂遺跡-----宿
(泊)〒422-8033静岡市駿河区登呂4丁目17-23 旅館登呂
11月7日(金) *レンタカーにて移動*
宿- -<STEP IN たまるや(わさび漬け工場)>--<大崩海岸>---<焼津漁港>-------<焼津市街>---<静岡うなぎ漁業協同組合(大井川流域の養鰻業)>-----<相良油田>--<グリンピア牧ノ原(牧ノ原台地の茶業)>---<富士山静岡空港ビジターセンター>---<大井川蓬莱橋>-----宿
(泊)〒427-0022 島田市本通1丁目4628-2 ホテル1-2-3島田
11月8日(土)
宿---島田駅前9:34====9:41大井川公園前---<島田市街(大井川川越遺跡)>--大井川公園前10:51===10:53新金谷入口---<大井川鐵道新金谷駅>11:15===11:19 金谷====<金谷市街(東海道石畳)>----金谷駅にて解散12時30分頃
見学(下調べ分担)テーマ:
・東海道メガロポリスにおける静岡の位置(人口と都市、産業)
・駿府城下町の都市形態とその変遷
・現在における静岡市の中心市街地の構造
・石垣イチゴ生産の変遷と観光化
・清水港の貿易の変化と東海道における位置
・清水エスパルスの設立と清水における意義
・静岡市と清水市の合併の経緯と合併市における両市の位置
・焼津漁港における遠洋漁業の変化
・大井川流域における養鰻業の展開
・牧之原台地の開発と茶業
・東海道53次の交通体系と大井川川越
・産業観光としての大井川鐵道